東京回遊魚

東京を身近に感じてもらえるようがんばるブログです

文京区ゆかりの文豪〜石川啄木編〜

こんにちは。今回は、文京区ゆかりの文豪「石川啄木編」をお送りしていきたいと思います。(「啄木」が変換できなかったので、こちらの啄の字で失礼させていただきます。)

 

石川啄木と文京区(出身地だと思ってた、けど……?)

「一握の砂」など、日本の近代文学を代表する作品を残した石川啄木。文京区ゆかりの人物として、よく区の図書館などでイベントが催されたりしております。石川啄木先生の作品をまとめた展示や、彼の作品について深めるトークショーなどが頻繁に開催されていて、私の中では完全に「文京区の人」というイメージでいました。

そんな石川啄木先生なんですが、なんとご出身は「岩手県」とのこと。あれ?そうなんですか!?初めて知りました。
彼は、岩手県に生まれ、盛岡中学校を中退し、上京します。文学をもってその身を立てるためです。

 

石川啄木先生は、人生で3回上京をします。その3回とも文京区へ居を構えました。1回目は上述の、盛岡から「文学をやるぞ!」という志を胸にしての上京。2回目は処女詩集を観光するため向ヶ岡へ。3回目は北海道放浪生活をやめ、気持ち新たに文学をやりに本郷へ。


彼は、何やら文学をやろう!と決意するたびに文京区に引越しをして、文学無理……となると地方に引っ越してしまうタイプの方だったようです。文京区に来る毎に作品を残し、それが有名になったので、「文京区の人」というイメージがついたんでしょうね。

 

石川啄木の最期

そんな移り気な石川啄木先生ですが、若くして肺結核に冒され、26歳でその一生を終えました。
彼の住居は例によって東京都の指定地区になっており、石川啄木の遺作とされる歌の記念碑と、石川啄木と文京区のつながりについて紹介するパネルが展示されています。彼の足跡を辿って、文京区散策などいかがでしょうか。

 

以上です。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

 

文京区ゆかりの文豪〜樋口一葉編〜

 

文京区にまつわる文豪シリーズ第二弾、お送りしていきます。
今回は、5000円札にもなった「樋口一葉」と文京区の関係について紹介していきたいと思います。

 

彼女は、小説家・歌人として、若くからその才能を発揮しましたが、天才の宿命か、天に早々に呼ばれてしまい、24歳でその人生を終えました。
その短い一生のうち、文京区で生活したのは約10年の間だそうです。生涯のうち、実に半分近くの時間を文京区で過ごしたということですね。

 

彼女は、千代田区に、一家の第五子として誕生しました。彼女の祖父、父は学問を好むアカデミックな人間であり、彼女はその影響を大きく受けたものと思われます。4歳の頃に、東京大学の赤門付近に引越しをし、そこから5年間をその家で過ごします。彼女の父は、幼い我が娘の文章の才を見抜いて、和歌などを習わせました。彼女の才能は、父の支援があったところも大きいのかもしれません。
その後、文京区にある歌塾、「萩の舎」に入門し、和歌と古典の勉強に勤しむこととなりました。


その後、彼女は、父や兄が早くに亡くなったことから、戸主として一家を支える必要性に迫られました。しかし、小説家としての道を諦めることはせず、その頃女性たちに与えられていた針仕事などの職に傾倒することなく努力を続けました。しかしながら、かなり金欠に困らされていたようで、金策に奔走する人生だったようです。ペンネームの「一葉」も、この金欠からきたものではないかと言われるほどでした。もし一葉が裕福であったなら、もっと数多くの名文を世に送り出せたのだろうか、などと考えてしまうのは失礼なことでしょうか。

 

一葉は、明治27年5月、本郷の菊坂に居を構え、ここで亡くなります。この場所は、区指定史跡に指定されており、現在もかつて一葉が使っていた井戸などがそのまま残されています。それだけではなく、この辺り一帯がかつての風情を残した珍しい街並みになっています。
東京の路地裏に広がるノスタルジーをカメラに収めるべく、休日には幾人かが、その趣を味わいに足を運んでいるようです。
文豪と同じ空気を吸いに、菊坂を訪れてみるのも素敵な夏の日の過ごし方かもしれません。

 

 

以上です。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

文京区ゆかりの文豪〜森鴎外編〜

文京区は、以前紹介した通り、アカデミックな土地柄が自慢です。特に、書籍に関係のある街並みであるので、自然、文豪との関わりが深くなります。そんなわけで、文京区ゆかりの文豪はたくさん存在しています。
今回はその文豪たちの中から、森鴎外と文京区の関わりについて紹介したいと思います。

 

さて、皆さんご存知の森鴎外ですが、彼は日本にいる期間のほとんどを文京区で過ごしています。
彼が、文豪である前に医者であったことは、周知のことかと思われます。彼は、文京区にある東京大学医学校予科(現在の東京大学医学部)に年齢を偽って(!)入学しました。そして、紆余曲折あり、ドイツに行ったり、台湾に行ったりしました。語学が堪能であったその能力を生かし、かなりの活躍を見せていたようです。

 

そんな活躍を見せた彼のことを、ずっと待ち続けていたのは、文京区にあった家たちでした。
彼は、駒込千駄木街57番地に家を借ります。現在、この家は通称「猫の家」と呼ばれています。なぜか。なんと、彼が入居したその後にあの夏目漱石が「我輩は猫である」を執筆した家だからなんです。なんとも不思議な巡り合わせだと思いませんか?
さて、その後、彼は同じく駒込千駄木街21番地に引っ越します。これが彼にとって、その生涯を終えることになる家となりました。
ここの二階を、彼は「観潮楼」と名付けました。東京湾の潮の満ち引きを観測できるから、という意味でのことでしょう。(但し二階なので、「楼」と呼べるか疑問ですが……。)ここには、森鴎外と親交の深かった数々の文豪が集い、会合を開いていたようです。

 

この観潮楼自体は、火事によって焼失してしまいましたが、敷石等は残っています。その跡地を使い、現在は「文京区立森鴎外記念館」が置かれています。様々な肩書きを有し、マルチな活躍を見せていた森鴎外について、様々な展示を用いながら紹介する記念館です。
以下がその記念館のホームページです。興味のある方、ぜひご覧になってみては?きっと涼しいですよ。

moriogai-kinenkan.jp

 

以上です。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

御茶ノ水 その名の由来

私の好きな街の一つに、お茶の水があります。高名な病院、いくつもの大学が立ち並ぶ、アカデミックな街並みな一方で、楽器屋や、全国からマニアを集める料理店などが密集していたりする、いろんな文化が混ざり合った不思議な雰囲気を持つ街です。坂を下りていくと神保町、古本屋が立ち並ぶ趣ある街並みになります。私はこの御茶ノ水〜神保町の街並みが、様々な文化の坩堝のようでとても好きです。
さて、そんなカオスな街御茶ノ水ですが、そもそもなぜ「御茶ノ水」という名前が付いているのでしょうか。今回はそれについて調べてみました。

御茶ノ水」という名前から感じられることは2つあります。一つ目は、文字通り「茶の水」として使われた何かが存在していたこと。そして、その名前に敬称がついていることから、何らかの高貴な人間に関わるものではないかということです。
御茶ノ水は、中央を神田川流れる、渓谷のような雰囲気を持つ街です。これがこの街を面白い景観にしています。この水路は、神田川の放水路として、江戸川幕府2代目将軍、徳川秀忠が切り開いたものです。
この「徳川秀忠」が、今回のキーパーソンです。

  • 結局のところ・・・・・・

徳川秀忠は、かつての将軍の例に漏れず、鷹狩りを趣味として行なっていたようです。その折、当時御茶ノ水にあったお寺に立ち寄り、そこの茶を飲んだところ、その美味しさに感動した。それ以降、徳川家の御用達の茶水として利用されるということになったようです。そのことから、「御茶ノ水」という名前が付いたということです。

かつての御茶ノ水は、神田川の清流が流れる、豊かな土地だったのですね。現在の川は緑色になってしまっていて、少々残念です。何とか頑張って改善してほしいとところではあります。

 

以上です。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

文京区歌に見る地味キャラの本気


みなさまおはようございます。夏本番、いかがお過ごしでしょうか。私は、夏休みが始まったこともあって、快適に過ごしております!休み最高。人生最後の自由な夏休み、満喫したいと思います。

 

さて、今回は、我らが文京区の「区歌」について調べていきたいと思います。
皆さまは、ご自分の住まわれている自治体の「歌」を、ご存知でしょうか。国歌や、校歌は知っていても、「区歌」をご存知の方はあまりおられないかもしれませんね。私が初めて文京区の区歌に触れたのは、小学生の時でした。子どもながらに「すごいなこれ」と思ったことを覚えております。
以下が、その歌詞であります。

1.ああ大江戸のむかしより ここは学びの土地にして
紅の塵ちかけれど 緑の丘はしづかなり
書読む窓の多(さわ)なれば 家おのづから品位あり
都は文化の中心地 わが区は都の文京区
2.今新時代(あらたよ)の朝未明(あさまだき) 自由民主の鐘の音に
人は巷に迷へども 我等が隣安らへり
もの知る人の多なれば 町おのづから平和あり
都は文化の中心地 わが区は都の文京区

ーーー文京区歌は、昔からの歴史と文化のある「文教の府」としてのイメージと、新しいまち「文京区」への期待をこめて、昭和26年3月1日に制定されました。
この区歌は、当時区内に住んでいた詩人・佐藤春夫氏に作詞を、また作曲家・弘田龍太郎氏に作曲を依頼し完成したものです。
区民の皆さまに愛される歌として、広くご利用いただければ幸いです。ーーー

(文京区役所ホームページより)

 

いかがでしょうか。あの -地味な- 文京区とは思えない、自信満々な歌詞ではないでしょうか?イケイケですよね。
私は、何回見ても「ちょ、ちょっと、その……マウントきつくない!?」と感じてしまいますね。大丈夫なんでしょうか。(何が?)
二回繰り返される「都は文化の中心地 わが区は都の文京区」にパワーを感じます。「私たちが!文化の中心地だ!」という勢いが、地味キャラの本気っぽくて愛おしく感じませんか。


やはり文京区は、都心の喧騒の中にありながら、その流れにのまれることなく、本をたくさん読み、知恵を豊富にもつ区民性(?)が自慢なんですね。私もその意思を汲んで心を入れ替え、アカデミックな人間になりたいと思います。

 

ちょっとニッチな記事になってしまいました。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました!

【千駄木】妖店通りでこの世とあの世の狭間に迷い込む

みなさま、おはようございます。今日の東京は何度か小雨を感じる曇り空。過ごしやすい一日となりました。いつもこうだと良いのですが……。

さて、本日は、東京【千駄木】にて開催されました、「妖店通り商店街」の訪問レポをやっていきたいと思います。どうぞお付き合いください。

「妖店通り商店街」とは、何か。
「各所で再開発が進み、昭和の風景が消えていきます。
次々と出現する高層ビルに近代的な建物、一箇所でなんでも揃う複合施設。
都内に古くからあり、人々の生活を支えてきた商店街の多くはシャッターが目立つようになりました。
数年後、数十年後に商店街を残していくためにはどうしていくべきか。
よみせ通りでは若手を中心に定期的に会議の場を設け、
意見を交わし試行錯誤しながら様々なイベント等を企画・実施しています。」(妖店通り商店街ホームページより)
地域に根付く、暖かな商店街文化。その文化を、後世に残したい。この町並みを失いたくない。そんな地元住民の方々の気持ちから、このイベントが生まれました。「よみせ通り」が、期間限定で、「妖店通り」として、人間と妖の共存する世界となる。それがこのイベントのコンセプトです。

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今回私は初めてこのイベントに足を運びましたが、その雰囲気の独特さに驚きました。まず、千駄木の街並みそのものが、とても庶民的で、極めて懐かしい昭和チックなものだったのです。(私は平成生まれなので、この表現が正しいかは微妙ですが……)

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それに加えて、細い商店街の通りに並べられた、独特の世界観を持った出店。みたところ、狐面を売っているお店が一番多かったように思います。他にも、妖怪の描かれた札やTシャツなど、趣向を凝らした面白い商品が多々並んでいました。訪れている人々も、思い思いの妖怪のコスプレをしたり、狐面をつけていたり等、不思議な雰囲気に全身を包まれるような、まさに、良い意味で「狐につままれた」ような心持ちになりました。

 

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路上では紙芝居も行われていました。お恥ずかしながら、私はこの「自転車の後ろに紙芝居の道具をくくりつけて行う紙芝居」というものを今まで見たことがなかったのですが、演者の方の言葉の巧みさ、一人で何役もこなすその力量に驚かされ、思わず見入ってしまいました。前で見ている子どもたちも、静まり返って、語り手と紙芝居を凝視していました。演目は耳なし芳一。小さい子供には、ちょっと刺激が強かったかもしれませんね笑

 

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昭和の街並みを体験できたことに加え、その独特な世界観に浸ることができました。魅力的な妖怪の方々(?)をたくさん見ることもでき、まさに夏にふさわしい、ほんのりひんやりとした素敵な体験ができたと思います。また来年も行ってみたくなりました。
次回は10月!ハロウィンですね。皆様も、この世とあの世の狭間に、足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。帰り道はきちんとお確かめくださいね。

 

以上です。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

【文京区】文京朝顔・ほおずき市ノススメ

みなさまこんにちは。暑い日々が続きますね。体調管理には是非お気をつけくださいね。私は最近プールにはまっていて、よく泳ぎに行くようになりました。程よい疲労感が得られて、とっても気持ちいいですよ!何より涼しい。これ大事。

 

さて、本格的な夏の訪れを感じる時期。今回は、そんな夏の暑さを紛らわせてくれるような、涼しげなお祭りについて紹介します。
その名も「文京朝顔ほおずき市です。


朝顔!皆さまは、小学生の頃、家や学校で朝顔を育てた経験はおありでしょうか。私はあります。学校に着いたばかりの早朝、綺麗に咲いた朝顔に、クラスのみんなで水をやったこと。夕になる頃には花がしぼんでしまったこと。今でも覚えています。幼ながらに、季節らしい感傷を感じていたように思います。日本人にとって、夏の風物詩とも言えますね。そしてほおずき。実を包むように膨らんだがくの鮮やかさ。一目で視線を奪われます。吹くと音がするので、子供達の遊び道具にもなりますよね。好奇心から袋を破って中を見てみると、中にはなんとも愛らしいオレンジ色の実が身を潜めているのでした。なんとも不思議な魅力のある植物ではないでしょうか。

 

この朝顔とほおずきを買える、さらに様々なイベントが予定されている。それが来たる7月22日、23日に行われる、「文京朝顔ほおずき市」なのです。要チェックです!
朝顔市は、徳川公ゆかりの寺院、「伝通院」にて行われます。どうして縁なのか?それは、徳川家康公の生母、於大の方を始めとした、徳川に血縁をもつ人々が、この伝通院を菩提寺としているからです。(傳通院、という名前自体が、於大の方法名から来ています。)朝顔市の喧騒に疲れたら、これらの墓碑を見てみるのも良いかもしれません。朝顔市では、朝顔鉢の販売の他に、飴細工販売などの出店、寄席なども計画されています。盛りだくさんですね!


対してほおずき市は、「こんにゃくえんま」とも呼ばれる「源覚寺」で行われます。こんにゃくえんまというのは、源覚寺に存在する閻魔像の「あだ名」です。この像は右目が黄色く濁っているのですが、それにまつわる面白い伝承から来ています。「あるところに、眼病を患った老婆がいた。その老婆が、毎日この閻魔に祈りを捧げたところ、夢に現れた閻魔が『私の片目をあげよう』と言い、その通り老婆の目は治癒した。以降、老婆は感謝の念を伝えるため、自身の好物であったこんにゃくを食すことなく、えんまに供え続けた」というものです。今も、眼病への利益を求め、こんにゃくを供にくる方がおられるようです。そんな、一度聞いたら忘れられない名前のえんま様に、「一目」会って「見」てはいかがでしょうか。こちらも、ほおずき販売の他に、各種出店等が計画されているようです。焼酎も飲めるんですってよ!一杯いかがでしょうか。

 

魅力いっぱい、涼しげ爽やか。そんな「文京朝顔ほおずき市は、今週末土日(7月22日、23日)各寺院にて開催されます!コンクリートジャングルの中、いっときの安らぎを探しに、是非足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

以上です。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!